2010年1月24日 日曜日
性格評価以外のシーンで、「まじめ」・「ふまじめ」という軸でものごとを見る人がいます。思考停止してはいないでしょうか。
大人になるにつれ、「まじめ」「ふまじめ」という切り口でものを語る人は減っていきます。というのも、ルールに従うのは「まじめ」だからではなく、利益があるからでしょう。
不利益があったり、実効性に乏しいルールには誰も従いたくありません。
身内が定義した実運用に乗っている生きたルールの場合、標準化や何らかの危険回避を目的としていますから、手がかかることはあれど損をすることは通常ありません。ちょっと考えれば、手を抜くデメリットもわかりますしね。
しかし、全体最適化を目的とし、上位が下位に強制しているルールの場合などは、局所的なデメリット(しわ寄せ)を生むこともあります。この場合、ただただ従うならば「(ばか)まじめ」と言えるでしょう。不利益があったり、強制力のあったりするルールに対しては改善の働きかけを行う、あるいは、取り決めを都合のいいように解釈して運用する...といった大人の対応をすべき。ただし、この場合も、一旦ルールに乗っかり周辺の諸事情を理解しなければ、発言権も得られず前進しません。
したがって、「利益を得るためにルールは自ら最適化をしていくもの」という観点から、いずれの場合もルールに乗ることが第一手だと思うのですよね。「理由はともかくルールは与えられるもの」という観点の場合、「やる」「やらない」という二択にしかないため、「まじめ」「ふまじめ」という目先の発想になるのかもしれません。学校の規律教育の弊害による考えない労働者の誕生です(ある意味狙い通り)。
なんのためのルールかよく考えていれば、「まじめ」かどうかではなく、「利益」があるかどうか、「実効性」があるかどうかというあたりに行き着きそうなものです。もちろん、万事が万事そうではないでしょうけれど。だから、私は「まじめ」というキーワードに敏感です。経験的に、「まじめ」「ふまじめ」で結論付けようとする者は、未来のことや組織のことまで踏み込んで考えておらず、寂しい気持ちにさせられることが多いです。
*「まじめな製品」「まじめなサービス」というのは成立するので、「まじめ」というキーワードを一律否定するものではありません。
...というようなことをいう私は、「まじめ」?(笑)
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